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トリップ・ホップとは?興隆から終焉、ポスト・アメリカ的姿勢が生んだ名盤誕生の背景まで

f:id:beipana:20181016231811j:plain Photo by Marcus Loke on Unsplash

2018年はトリップ・ホップにとって大きな節目の年にあたります。マッシヴ・アタックは名盤『Mezzanine』20周年記念版をリリース、Mo'MAXのオーナー、ジェームス・ラヴェルは自身の90年代を振り返る映画『The Man From Mo'Wax』を公開、そしてポーティスヘッドの3rdアルバム『P』リリースから10年。これほど最適なタイミングはないだろうと思い、トリップ・ホップについてまとめました。

 

トリップ・ホップとは

トリップ・ホップは、1990年代初めに英国で生まれた音楽ジャンルとされていますが、バズワードでもあるため厳密な定義は存在しません。この名称は、音楽ライターのアンディ・ペンバトン(Andy Pemberton)が1994年6月の英国の雑誌『Mixmag』で、レーベルMo'WaxからリリースされたDJシャドウ(DJ Shadow)の楽曲『In/Flux』と初期のケミカル・ブラザーズを「トリップ・ホップ」と表現したことに由来します。

ペンバトンはさらに「トリップ・ホップは、アメリカ主導のヒップホップに対する最初の有効なオルタナティブな音楽」と説明しています。オルタナティブとは具体的には「ヒップホップのブレイクビーツなどの要素をベースにした実験的な音楽性」を差します。90年代初頭に英国全土で広がっていたレイヴ・カルチャー・ムーブメントに呼応しながら、90年代中期から広がりを見せていきました。

トリップ・ホップの代表的なミュージシャン

マッシヴ・アタック、ポーティスヘッド、トリッキーなど英国ブリストル出身の音楽家、そして英国ロンドンをベースに活動するレーベルMo'WAXのDJシャドウやDJ KRUSH、レーベルNinja Tuneのコールド・カット(Cold Cut)、DJフード(DJ Food)などが代表的なミュージシャンです。

ただし、それぞれ独自の背景によって生まれた音楽が「同時代性」と「ヒップホップ由来である」という理由によってトリップ・ホップと括られているため、これらのミュージシャンの大半はトリップ・ホップと称されることを拒絶しています。

トリップ・ホップの名盤・代表作

「好むと好まざるにかかわらずトリップ・ホップは存在する」と、躊躇いがちに始まるイギリスの音楽メディア『FACT』が2015年に発表した「トリップ・ホップ・ベスト50*1」は、トリップホップとはなにかを非常に上手くまとめた内容になっています。上位5枚は以下のとおり。

  1. Tricky - Maxinquaye (Island, 1995)
  2. Portishead - Dummy (Go! Beat, 1994)
  3. DJ Shadow -Endtroducing (Mo Wax, 1996)
  4. Massive Attack -Blue Lines (Island, 1991)
  5. Luke Vibert -Big Soup (Mo Wax, 1997)

文句なし。

youtu.be

異議なし。

www.youtube.com

うむ。

www.youtube.com

このリスト選出については、以下のような説明があります。

このリストは、サウンドの幅を持たせるべく本拠地イギリスから遠ざかることを試み、かつ歴史的な正確さを保つため、1990年代に絞っている。・・・ポーティスヘッドやマッシヴ・アタックなど、1組のアーティストが複数の価値のあるアルバムをリリースしている場合、最も決定的な1作品のみを選出した。

このポーティスヘッドやマッシヴ・アタックへの言及と、Mo'Waxから9枚、Ninja Tuneから8枚選出されている点からも、前述のミュージシャンがトリップ・ホップの代名詞であることが理解できると思います。

トリップ・ホップの発祥

 
 
 
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後にトリップ・ホップと区分される多くの音楽のベースは、90年代初めに英国の港町ブリストルで誕生します。ブリストルは土地の値段が安かったため、アフリカとカリブから移住した黒人、ヒッピー、学生など多くの異なる文化の人々が住んでおり、この様々な文化が交じり合った環境で活動していた音楽家が、ヒップホップ、レゲエ、ソウル、ハウス、ジャズ、パンク、テクノなど様々なジャンルを融合させ、ブリストルの独特のサウンドを作り出しました。

こうして生まれた『ブリストル・サウンド』(この総称も当人たちは拒んでいますが)の中から現れた音楽の中の一部がトリップ・ホップと呼ばれるようになりました。

1998年発行の米国『ニューヨークタイムス』紙には、マッシヴ・アタックの1991年のデビューアルバム『Blue Lines』について「その重厚なビートと内省的な精神がトリップ・ホップ・サウンドの青写真となった」と記されています。

トリップ・ホップの音楽的な特徴

 
 
 
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Spot the Dummy.

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構造的な特徴

アメリカのヒップホップ同様、ブレイクビーツ、サンプリングネタのループ、スクラッチなどの要素を含みつつ、前述のとおり他の様々なジャンルを組み合わせて成り立っています。

代表的なミュージシャンのひとりだったDJ FoodのStrictly Kevは、トリップ・ホップのことを「一般的にインストゥルメンタルで、サンプリング、アナログ・エレクトロニクス、ダブFXを含んだサイケデリック・ビート・コラージュ」と表現しています。

一方、『ニューヨークタイムス』紙は「典型的なポップ・ソングの構造ではなく、古典的またはジャズ・コンポジションのような長い楽節で展開して進んでいく、パノラマティックなサウンド・スケープを採用する傾向がある」と記載しています。この特徴を最も打ち出したのがポーティスヘッドです。当事者の意図は後ほど記載します。

質感(ミックス)的な特徴

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質感はアメリカのヒップホップよりも汚れており、荒々しくローファイな楽曲も含むのが特徴です。主に古いレコードからサンプリングされた音を利用することに起因しますが、生演奏をわざと汚している場合もあります。

ポーティスヘッドのメンバーのジェフ・バロウはデビュー作『DUMMY』制作時を振り返り「汚れたレコードのような質感を求めていた。そのためにアンプを通してドラムの音を録音した。」と語っています。

ビートの特徴

キックは低域が強調されトップとミドルの周波数がカットされたように聞こえます。スネアは楽曲によって音色は様々ですが、明るく硬い傾向があります。古いジャズレコードからサンプリングされたブラシスネアが使用されることもあります。スネアの代替としてエスニックな楽器やタム、その他の音も使用されます。

ラップが少ないのはなぜか

アメリカのヒップホップと比較するとトリップ・ホップに分類される楽曲は、ラップが含まれていないケースが多いです。英国の音楽ジャーナリスト、サイモン・レイノルズは自著『The Generation Ecstasy』にて「英国のヒップホップは、アメリカのような政治的側面を持っていなかったこと」がその理由であると記しています。また「アメリカでは人種が団結の重要な要因だったが、英国では若者とテクノロジー、そしてドラッグへの開放性がその要因だった」とも記述し、ラップのプライオリティが高くなかったことを示唆しています。

UKラップシーン「ブリット・コア」について

イギリスには80年代後半から90年代前半にかけて『ブリット・コア』と呼ばれるラップシーンがありました。イギリスのスラングとジャマイカのパトワ語が混ざった、アメリカのラップよりも速いフロウが特徴的で、普通のヒップホップに飽き飽きしていた人々によって作られ、レイブシーンで歓迎されました。プロディジーのメンバーもこのシーンからキャリアを開始しています。

主に人種差別や白人への不満が歌われたこのラップシーンは、社会現象になるほどのムーヴメントにはならず、上述のサイモン・レイノルズの発言を裏付けているようにも思えます。

このシーンの熱心なフォロワー、マーク・マクドナルドは以下のように言及しています。

ブリット・コアは、87年以前のUKヒップホップと92年以降に開花するダンスミュージックシーンの間のステッピング・ストーンのような存在だったと思う。・・・当時のUKのヒップホップシーンは停滞していて、新しいエネルギーはアシッド・ハウスやレイヴシーンから来ているようだった。

The UK's Forgotten Rap Scene Deserves Your Attention

 

トリップ・ホップのアティチュード

ヒップホップをベースにしその影響を受けたにも関わらず、なぜアメリカとは異なる形になったのか。ここからはトリップ・ホップの代表的ミュージシャンの発言からその背景を読み解いていきます。

ポスト・アメリカ,ヒップホップとしてのアティチュード

マッシヴ・アタック

メンバーのダディ・Gは、2018年のインタビューで以下のように語っています。

「サンプラーが一番最初のメインの楽器だった。マッシヴ・アタックを組んだ時、自分たちはDJだったので、好きなレコードをそれぞれ持ち寄ってトラック制作に取り掛かったんだ。当時はアメリカのヒップホップのスタイルをそのまま真似しようと試みていたんだが、次第に自分そのものであることが大事だと気付いた。サウス・ブロンクスのことを唄うなんてナンセンスなんだ。イギリスの音楽家として、他とは異なる自分たちの音楽を作るべきだと思い返した。

Twenty Years Later: On Massive Attack and Mezzanine

ポーティスヘッド

以下はメンバーのジェフ・バロウの発言です。ポーティスヘッドの1st制作時の1991年に偶然ラジオで流れたCANに衝撃を受けて以来、クラウト・ロック(ジャーマン・ロック)に傾倒していった彼は、その音楽性と精神性の両方に強い影響を受けたようです。

クラウト・ロックは、彼ら自身のフィーリングによって作られたものだ。CANやクラフトワークは「ドイツ版アメリカのバンド」なんかになろうとは思ってなかったんだよ。ポーティスヘッドにも同じことがいえる。俺たちは、アメリカ的なブルースを基盤とした作曲方法から抜け出そうと常にしていたんだ。感情的な人間らしさを残して琴線に触れるような悲しげな音楽を、ブルース・ロック的な構造なしで作ろうとしているんだ。

Multiplicity: Geoff Barrow Speaks On Quakers, Beak >, Drokk + Portishead

DJ シャドウ

 
 
 
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Falling like dominoes in Davis, California for a Japanese music magazine. #1995

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トリップ・ホップと最初に形容された楽曲『In/Flux』を制作していた頃、DJ シャドウはアメリカのラップの黄金期が終わったと感じ、ラップを聞かなくなっていたそうです。そしてサンプルネタとして掘っていたソウルやロック、ジャズなどを聴き始めたと。

ポスト・レイブ・カルチャーとしてのアティチュード

Ninja Tune

80年代から活躍し、英国DJのパイオニアとも言われるコールド・カットの2人によって90年に創設されたレーベルNinja Tune。音楽メディア『FACT』の2012年のインタビューによると、90年代初期のハウス・オリエンテッドでエクスタシーに溢れたクラブカルチャーに疲弊し、それとは異なるエクレクティックで多彩なことをしようとレーベル創設時に考えていたそうです。

メジャー・フォース・ウェスト

Mo'Waxから作品をリリースしていたメジャー・フォース・ウェストのメンバーだった故・中西俊夫さんは以下のように回想しています。

MAJOR FORCE WESTとしてロンドンにいた90年代は、60年代ぽいサイケデリックな雰囲気はあったと思う。・・・それはマンチェスターのバンドみたいなエクスタシーのアシッドではなくて、ほんとうのアシッドのサイケデリックだ。それもあってサイケデリック・ヒップホップみたいのをやろうとしていた。・・・それはトリップ・ホップと言われてしまうけどね。

INTERVIEW: 中西俊夫

トリップ・ホップのピーク

前述した『FACT』によるベスト50枚をリリース時期別にソートすると以下のようになります。

1991年:1作品

1993年:1作品

1994年:7作品

1995年:9作品

1996年:14作品

1997年:9作品

1998年:7作品

1999年:2作品

リストの60%が90年代中期(94年〜96年)にまとまっており、この時期がトリップ・ホップの黄金期とも言えます。この時期における代表的なミュージシャンの状況をそれぞれまとめました。

マッシヴ・アタックの90年代中期

 
 
 
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マッシヴ・アタック周辺、元ワイルド・バンチのメンバーはこの時期にメインカルチャーに接近します。特に94年にリリースされた2ndアルバム『Protection』のプロデューサーを務めたネリー・フーパーは、マドンナの『Bedtime Stories』、ビョークの『Post』を手がけます。

また、同じく『Protection』でストリングス・アレンジャーとして活躍したスコットランドの作曲家クレイグ・アームストロングとともに、バズ・ラーマンが監督した96年公開の映画『Romero and Juliet』のサントラも手がけ、一躍表舞台に躍り出ます。

マッシヴ・アタック自身も96年にブリットアワードを受賞し、前年にはマドンナの『I Want You Back』の制作に携わりました。これがその後の崩壊にも繋がるのですが・・・

トリッキーの90年代中期

 
 
 
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@juvil31692018 🙏🏽🙏🏽

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95年のデビューアルバム『Maxinquaye』が絶賛されたトリッキーは、ブリストルからロンドンへ引っ越し、ビョークらと別プロジェクト『ニアリー・ゴッド』を開始します。さらにニューヨークへ引っ越して自身のラップレーベルを設立。ボノやデビッド・ボウイとの交流も始まり、なんとリュック・ベッソン監督の『The Fifth Element』で俳優デビューも飾ります。

ポーティスヘッドの90年代中期

ポーティスヘッドのデビューアルバム『Dummy』は、レコード会社から「50,000枚売れれば良い方」といわれる程度の期待値だったものの、レディオヘッドが賞賛し、オアシスが自身の作品への影響を公言するなどのバイラルによって爆発的に広がります。翌95年にマーキュリー・プライズを受賞し、たくさんのフォロワー・ミュージシャンを生み出すことになりました。

95年はグラストンベリー・フェスティバルへの出演も果たしています。アコースティック・テントには彼らを一目見ようと15,000人以上の観客が集い、その混沌とした状況は、グラストンベリーの歴史において記録的な出来事のひとつとして今も語り継がれています。

Mo'Waxの90年代中期

 
 
 
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Merch merch merch! At the @unkleofficial #jameslavelle #unkle #daydreamingwith exhibition. We got this urban archeology t shirt.

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14歳からDJをはじめ、18歳に自身のレーベルMo'Waxを立ち上げたジェームス・ラベル。ブレイクビーツ・マスターピースともいえるDJ シャドウの『Endtroducing......』をリリースした96年の時点で22歳という若さでした。DJ シャドウはラヴェルについて「彼はハチドリのように動いていた。そういった信じられない程の働きっぷりが彼を成功に導いた」と回想しています。

前述の通りヒップホップをベースにあらゆる音楽性がミックスされたものがトリップ・ホップですが、Mo'Waxの場合、そこにファッション、グラフィック・デザイン、おもちゃなどジェームス・ラヴェルの好きなものが全てミックスされていきます。その最終形態が自身のバンドUNKLEであり98年にリリースされる『Psyence Fiction』であり、結果この作品が後のひとつの時代のピリオドに繋がっていきます。

トリップ・ホップの終焉 -それぞれの1998年-

改めて『FACT』選出のベスト50枚リリース時期を見ると、96年をピークとし選出される盤の数が減少しています。

1991年:1作品

1993年:1作品

1994年:7作品

1995年:9作品

1996年:14作品

1997年:9作品

1998年:7作品

1999年:2作品

 

実は1998年は、トリップ・ホップを体現していたミュージシャンが新作を発表すると同時に、トラブルを抱えていた時期でもありました。それぞれの状況を説明します。

マッシヴ・アタックの1998年

www.youtube.com

前作『Protection』から4年を経た『Mezzanine』のリリース当初、メンバーの仲は険悪になっていました。主な原因はマッシュルームと3Dの意見やバンドの方向性の対立によるものです。アルバム制作中に受けた取材において2人は「パフダディの価値」について論争します。その中で3Dは「俺はヒップホップから卒業した」と言い、ヒップホップ・オリエンテッドであった年下のマッシュルームを未熟者扱いしました。

ここで生じたメンバー間の敵対関係は『Teardrop』制作時まで尾を引きます。マドンナをボーカルにすべきと主張するマッシュルームと、それに反対しコクトー・ツインズのエリザベス・フレイザーを招きロックテイストに寄せるべきと主張する3D、それに同調するダディ・Gという構造が出来上がってしまいます。

結果、後者が採用され「もう音楽の話はできない」と言うほどにメンバー仲はますます険悪に・・・。そしてこのアルバムを機にマッシュルームは脱退し、ダディ・Gも制作活動からはしばらく離れることになります。

ポーティスヘッドの1998年

デビュー作で大成功を収めたものの、その後の活動はとても辛いものだったとメンバーのジェフ・バロウとエイドリアン・アトレイは語っています。

「セカンドアルバムを制作した後、全てのドアが閉じてしまい立ち止まるしかなった。地獄のように思え、どこにいるかわからなかった。そしてその後のニューヨーク公演によって完全に打ちのめされ、クリエイティビティが全てなくなってしまった。気が狂ってしまった。挑戦することができなくなってしまった。」

Portishead

この後、ジェフ・バロウはしばらく作曲そのものができなくなったと語り、サイドプロジェクトやサウンドトラックの制作などを行いながら、10年後の2008年にようやくサード・アルバム『P』をリリースします。

ちなみにセカンドアルバムから採用されている『P』という大文字ロゴの誕生の背景にも当時の少し痛々しいエピソードが。

90年代半ばのレコード会社は、自分自身をどのようにマーケティングすべきかについてヒドいアイデアを持ちかけてきた。それを回避するためには自分たちで方法を見つけなければならなかったんだ。俺たちは長い間苦労して身の丈に合う方法を探し、結局大文字の『P』になった。 文字がアイデンティティとなり、幸いにも人々はそれをバンドとして認識してくれるようになった。『P』は自分たちのロゴであり、そしてその背後に隠れることもできたんだ。

INTERVIEW: BEAK>

Mo'Waxの1998年

マイクD、トム・ヨークからメタリカまで豪華ゲスト満載で制作されたレーベル主催者ジェームス・ラヴェルとDJシャドウのユニットUNKLEの『Psyence Fiction』は、230万枚のセールスを記録し大成功を収めました。しかしその一方で、友人同士であったはずの両者の仲が微妙になっていきます。

DJシャドウにとって本作の制作は居心地の良いものではなかったようで、作品自体も「ロックファンにはハードコア過ぎるし、ラップファンには専門外過ぎる」と評しており、良い印象を持っていないようです。

ジェームス・ラヴェルは2000年に受けたインタビューで「DJシャドウはもう『Psyence Fiction』には関わらない」と言及し「自分とDJ シャドウとの友情にこれ以上プレッシャーをかけたくない」と語っています。

さらに2018年の映画『The Man From Mo’ Wax』のプロモーションインタビューでは「正直なところ、彼との関係は20年前に終わってしまった」と語っています。

「シャドウはさっさと足を洗った」とラヴェルは語る。「その当時の自分の仕事は、シャドウにコントロールされていたことにその時に気づいた。 私はひどい裏切り(abuse)を受けた。 信じられないほど魂を破壊されてしまった。」

James Lavelle: ‘Cocaine for Lunch – That Was the Record Industry’

トリップ・ホップのレガシー

トリップ・ホップの青写真を作ったと評されるマッシヴ・アタックのメンバーによる「ヒップホップから卒業した」という発言によって「トリップ・ホップはヒップホップをベースに・・・」という説明が成り立ちづらくなった点、最初にトリップ・ホップと形容された作品のリリース元レーベルオーナーが「DJシャドウとの関係は20年前に終わった」と発言した点を踏まえると、やはりトリップ・ホップは1998年にひとつのピリオドを迎えたといえるのではないでしょうか。

ただし、もちろんその後もトリップ・ホップが築いたレガシーはあらゆる形で引き継がれています。

代表的ミュージシャンの継続的な活動

 
 
 
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#Repost from @enric_palau with @repostapp --- We all had very GOOD TIMES at #sonar2014 Thanks to all the great artists! Repost @nenehcherryofficial

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本記事でトリップ・ホップの代名詞として紹介したミュージシャンたちの大半は、上述した状況のもと、90年代の終わりとともに活動の鈍化・休止へ向かっていきます。しかしいずれのミュージシャンも、数年のインターバルを挟んだりしながらそれぞれ課題を乗り越えて現在も引き続き活動を行なっています。ポーティスヘッドは、4thアルバムの制作に取り掛かっていることを2014年に公言しています。

Ninja Tuneは、90年代においてもレーベル運営を順調に続けました。99年にはシネマティック・オーケストラの輩出、00年以降はアメリカにも拠点を設けフライング・ロータスのレーベルBrainfeederのディストリビューションを行うなど、現在も活動の幅を広げながらワールドワイドに新しいブレイクビーツ・フォームをリリースし続けています。

映画音楽への貢献 

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昔の映画音楽を参照しながら現行映画音楽に大きな影響を与えたのも90年代トリップ・ホップのレガシーです。マッシヴ・アタックのメンバー、プロデューサーのネリー・フーパー、アレンジャーとして参加したクレイグ・アームストロング、ニール・ダビジ、ポーティスヘッドのジェフ・バロウなどは現在も様々な映像作品のサウンドトラックを手がけています。

彼らに共通しているのは『Blue Lines』の制作に関わったり、その時期にマッシヴ・アタックと邂逅している点です。『Blue Lines』は「トリップ・ホップの青写真だった」だけでなく今日の映画音楽の青写真でもあったのかもしれません。

トリップ・ホップの影響を明言するミュージシャンの登場

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トリップ・ホップ・ムーブメントに影響を受けた世代も現在活躍しています。ダディー・ケヴは、Low End Theoryの重要な影響の1つとしてMo 'Waxを挙げており、上述のフライング・ロータスはDJ Krushからの影響を明言しています。 

トリップ・ホップ・オリエンテッドなフォロワーの登場

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そしてストリーミング・シーンに目をやれば、近年のLo-fi Hip Hopの盛り上がりとともに登場した、90年代トリップ・ホップ・オリエンテッドともいえる無名のビートメーカーたちのトリップ・ホップを自称する作品が、日々大量にアーカイブされ続けています。

このようにトリップ・ホップは様々なかたちで今も脈々と続いています。

 


あとがき

ひとつのピリオドと捉えた1998年から数えて20年目に当たる2018年に初めて語られることも多く、トリップ・ホップとは何かを今までよりも深く知ることができました。

そういった直近のインタビューの中で、ジェームス・ラヴェルは90年代の音楽産業について「全く異形のビジネスで、当時若い自分はその文化の一部となっていた。昼食にコカイン - そんな業界だった。」と語っています。こうした状況も、各ミュージシャンが98年の事態に陥った原因のひとつだったのかもしれません。

トリッキーは早々に単独行動して渡米したため、Ninja Tuneは年齢的に既に多くを経験済みだったため、継続的な活動ができたのかもしれないですね。

調査する中で驚いたのは英語圏の情報アーカイブの充実っぷり。一方、日本語で「トリップ・ホップ」と検索すると個人の感想などが多くヒットするものの、参考になる情報はほぼ見当たらなかったです。

トリップ・ホップの名盤を語る際には、本エントリーでチョイスした『FACT』だけでなく、他のメディアにおいても日本人の作品が必ずピックアップされます。つまりトリップ・ホップは単なる海外のシーンではないため、日本語でも体系的な正しい情報をアーカイブすべきかなと思いました。個別アーティスト毎の素晴らしい取材はあるのですが。

また徐々に追記していこうと思います。トリップホップ警察からは以上です!

本エントリーは、『FACT』のベスト盤を軸におおまかな歴史を整理する流れになっており、個人的な思い入れや解釈は排除したつもりです。そちらは下記のプレイリストに託しました。時代と国もごちゃまぜのトリップホップ・フィーリングなメロウな歌もの多めです。よろしければ。


参考リンク

Genre busting: the origin of music categories

Groove in trip-hop music Department of Musicology

MUSIC; Trip-Hop Reinvents Itself to Take on the World

Generation Ecstasy:Into the World of Techno and Rave Culture

Geoff Barrow (Portishead) dans Radio Vinyle #10 sur le Mouv

the tracks that changed dj shadow's life

Panic, panic, panic: The Ninja Tune story

Q MAGAZINE INTERVIEW Jan 1999